Pre手袋、Post手袋
人に文句を言うときに、聞こえるようにひそひそと話す人はいったい何を考えているのだろう。
文句を言っても無駄だと思うなら、言わなければいい。きちんと注意をしたいのならば注意をすればいい。
ひそひそ話すことで本人の自覚を促して云々、なんてつまらないことを考えているのだろうか。
絶対に違う。
偏見と悪意に満ちた断言をさせてもらえば、こういうことをするのはたいてい女性と群れる女性だ。そして、その真意は、文句を言いたいわけでも気が付いてほしいわけでもない。誰かを誰かと公然と貶めて、それを公にディスプレイすることで、「わたしには味方がいるの」「わたしにはこういうことを話せる“親友”がいるの」と示威行為をしているだけ。それはなぜかと言えば、誰かに見てもらうことでしか存在しえないような味方や親友がいないから。
ついでに、誰かに嫌な思いをさせて、嫌な思いをさせている自分は少なくとも嫌な思いをしていないという安心感もほしいわけだ。
哀れな。
また、相手の地位やコネクションによって態度を変える奴らはなんなんだろう。なぜ、子どもをバカにして何も教えず、大人だけで秘密を共有するのか。なぜ、相手に“地位”があったら突然ぺこぺこしだすのか。たかが名刺一枚で、たかがいつ生まれたかだけで、そんなにその人の価値が変わるのか。
変わらない。
限定された社会経験と敵意に満ちて断定させてもらえば、こういうことをする奴は権力にあこがれて定年近くになってギリギリしている男性だ。自分が認められないいらだちを、敏感に自分の前に現れる弱者を感じ取り、その人にぶつけ、そのときのみ自分に許された小さな権力に神を見出したりする。
なんと小さな。
そんなことを考えてイライラしながら一日を過ごしていた。全く不毛なことに大事な脳細胞を無駄に費やしてしまっている。
ダライラマはBBCのインタビュアーに「中国に対して怒りを感じないのか」と聞かれ、「怒りを感じないね。自分のスタッフには僕は怒り散らすよ。でも、中国には怒らない。だって、怒ったって無駄だしさ」と答え、嫌いなものは「しゃちほこばって礼儀正しい人たち。日本人とイギリス人のインタビュアーが特にそう」と笑っていた。
とすれば、わたしはしゃちほこばって面白味がなく、さらに無駄なのに怒っているどうしようもない凡人というわけだ。わたしがバカにしている人たちとわたしの間には何の差もない。
そんなことを考えて歩いていたら、手袋を売っていた。怪しげな貸スペースで毎週いろいろな出店が出るスペースでその手袋は売られていた。羊革。裏はポワポワの素材ではなく、つるっとした素材。
Kは手袋をなくしてしまって以来、何度言っても新しいものを買わずに、真っ赤で黒いゴムで滑り止め加工をされた軍手を手袋代わりに使ってみたり、今に至ってはウレタン素材の釣り用の手袋を使っている。どこからどう見ても、町の中で利用する手袋ではない。おばさんたちの「あらまあ」的な視線も恥ずかしいが、小学校男子の羨望のまなざしもわたしの羞恥心を炊きつける。
しかし、Kは手袋へのこだわりがあり、それがかなえられないなら、軍手で結構らしい。うん、それはわかるんだけど。
そんなKでもこの手袋ならば、良いのではないか。しかもお値段なんと(怪しい)6割引き。
というわけで手袋を買い、電車を乗り継いだころには、今日の出来事はどうでもいいかな、カリカリしている自分もバカみたい、と思えるようになっていました。
手袋前と手袋後でなんだか少し切り替えができた感じ。
とか言いつつ、久しぶりのブログに思う存分書き散らして、これから帰宅するKにぶちくら話すつもり。それでそのあとに赤ワインを飲むまでが、嫌な出来事からの切り替えですよ。