同性婚についてもう少し。自分の行き過ぎた懸念など。
「どのような背景を持っていても人は皆平等に幸せになる権利がある。故にわたしは同性婚も認めるべきであるとかんがえ、その自分の権利を行使する」と言ってしまうと、自分のプライベート・アフェアーがポリティサイズされてしまう。そうすることで自分の抱えているものを社会の問題とすりかえて(同性間の愛情関係を認めない社会が悪い)しまって、自分の不幸は解消できない、と言ってしまうようなことを以前はしていたように思う。
そうではなくて、「わたしは幸せになりたい」と一人称で自分の気持ちをいえるようになったことがここ数年のわたしの一番大きな変化だったのではないかと思う。そうやって一人称で自分の気持ちを言うことによって、自分の感情を一般論やそもそも論などにすりかえず自分のものとして認識するのって本当に大切だ。
例えば、猫に怒るときでも
「そんなところにうんこをするような子は悪い子ですよ」
ではなく
「そんなところにうんこをされてわたしは迷惑をして怒っていますよ」
というようになったと思う。
セクシュアリティーを政治的にとらえるのは重要なことなんだろうと思う。でも、わたしは自分のセクシュアリティーをポリティサイズしたくない。自分のセクシュアリティーは自分のものであって、社会で共有されるようなものではないと感じているから。
社会での問題にしてしまうと、異性愛と同性愛という二元論で語られがちになってしまう。そういう二元論で語る弊害として「異性愛=ノーマル」「同性愛=アブノーマル」みたいな価値観が忍び込んできてしまったり、それに反発する余り過激な価値観をいきなり提案してしまったりして、レトリックに気をとられがちになってしまう。それはそれですごく意味があることだと思う。がんがん議論がされていくといいと思う。
でも、わたしは自分の同性婚に関しては、完全にプライベート・アフェアーだと思っている。わたしは幸せになりたいしKとずっと一緒にいたいし彼女の権利を守りたいので、自分にできることはする。それだけ。日本の社会に対する提言としての同性婚でもなんでもなく、単にKと結婚した、それだけ。一応、Kも女なのでそれが分かったほうが表現としては適切かと思って同性婚というタームを採用してみただけだ。
だって、異性婚はポリティサイズされないじゃん。「おめでとう」「幸せにね」といわれるだけで、「異性間の愛情を社会に認識させてください」とかそういうのないし。まあ、最近はどこぞの政治家がポリティサイズしようとしてて感じ悪いって思われてるみたいだけど。
…などど、ものすごく前のめりに攻撃的に思っていたのです。もしかして、レズビアンの癖に社会意識がなさすぎる、とか言われちゃうかなとか心配もしていたり。いや、レズビアンでも社会意識ない人もいると思うし、すべてのレズビアンが同性愛者の権利のために生きるべきなんてファシズムだろう、とも。
そんなわたしのくだらない懸念がまったく無駄であったことをここ2週間ほどで気がつかされました。
ほんとうにありがとう。