小人閑居

世の中に貢献もせず害もなさず、常に出力50%。

親からの虐待

今日のNHKクローズアップ現代で取り上げているのは、やさしい虐待、などではなく、虐待と簡単に捕らえられるものだと思うんだけど。すでに「やさしい虐待」が親(や養護者)からの過剰な甘やかしによって自己統制ができなくなってしまうことを指して巷で使われているときに、全く同じ用語を違うことを意味するように使うのはいかんのではないだろうか。

さてさて。そういう用語問題は横においておいて。

わたしもいわゆる「やさしい虐待」、すなわち過剰な躾と親からの否定をシャワーのように浴びて育った。それ故、いろんな問題を抱えている。

しかし、どういうわけか、不登校にだけはならなかったし、引きこもりにもならなかった。

それはつまり、引きこもったり不登校になったりして家にいることが本当に嫌だったからだ。母親といるくらいなら、煉獄に行ったほうがまし、くらいの勢いだった。ねんざで杖なしで歩けなかろうが、インフルエンザで熱があろうが学校へ行った(インフルエンザのときは行くべきではないけど)。だって、怪我をしたり熱を出したりすると怒られるから。

不登校になったり引きこもったりできる、ということは、少なくとも家が居場所となっているわけだから、そこは実はいいことなんじゃないか。ネガティブな依存関係の中に実は信頼関係も潜んでいるんじゃないか、引きこもることで親にメッセージが送れるくらいのコミュニケーションがあるんじゃないのか。

人に話すと絶対に信じてもらえないくらいのコミュニケーションの無さのわたしの血族を見るにつけ、少なくとも家に居場所を見つけている子ども達をうらやましく思ってしまう自分はもしかしたら疲れてるのかも。



学校が大好きだった理由は決して家が嫌というネガティブな理由だけではなく、リベラルで平等で開かれた雰囲気が大好きだったこともある。あるある。さらに、そういう自由で個性を重んじる教育によってわたしは親からの虐待に対抗することができたんだと考えている。

知ってしまえば知らなかったときには戻らない。知識は自分を生きるためのディフェンスでありオフェンスだと思う。そういう知識を与えてくれたあの学校は本当にわたしにとっての楽園だったな。