小人閑居

世の中に貢献もせず害もなさず、常に出力50%。

最近の心境など

昔のブログや仕事関係のホームページを見ると、まるでわたしじゃないみたいでびっくりする。難しい言葉を使いまわしてなんやしらん難しいことについてこねこねと語っていて。


たぶん、そういうことをすることを自分に課していたんだろうな。自分の意見を持ち政治的であり議論好きであり学術的であり、みたいな。

それが自分だと思い込んでいたし、そうあるべきだと思っていた。

でも、今になって思うのは、あれは人から望まれていた自分であって、決してわたし本人じゃない。だから、わたしはなにもかもに恵まれていて苦労を知らない生活をしつつも、どこかに暗闇を抱えていて常に死を思っていたのかもしれない。

わたしは、めんどくさがりでサボり屋で楽しいことが好きで、いたずらをしたり冗談をいったりするのが好き。お金は自分が食べる分だけあればいい。たくさんの友達に囲まれてわいわい過ごさなくても、Kがいて猫がいたらそれでいい。

初めて高野文子の「るきさん」を読んだとき、本当にうらやましかった。…で、まあ、現在の自分の生活はかなりるきさんのそれに近いような気がしてるけど(笑)。

あんまり将来のこととか考えられないし(って、年金とか保険とかそういうのはちゃんとしてるんだけどね)。一生かけてする仕事とかどうしてもしたい仕事とかないし。たまたま今できることをまじめにやってはいるけど、これを一生するっていう確信も覚悟もない。

考えてみたらけっこう刹那的だな。いま自分ができることをするだけって。…まあ、それができるのはこの上ない贅沢なことだと思っているし、だから今の自分の生活はなかなかいいと思ってる。欲を言えば、Kと早く一緒に暮らしたいんだけど。

ノルウェーの森」でレイコさんが自分はマッチの箱のざらざらみたいなもので人のいいところを引き出すのが上手だけど…みたいなことをいっていたと思う。わたしもたぶんそうなんだろうと思う。御寿司についてくるガリみたいな感じ。なくてもいいんだけど、あったらやっぱりメインのお寿司がよりおいしくなる、みたいな。

だからKの仕事のお手伝いをしてそれがうまくいっているとすごくうれしいし手伝えることがうれしいし。そういう意味において自分の能力に価値を見出せる。今ぼちぼちしていることもそういう意味で自分にはけっこうむいているんだろうな。

縁の下の力持ちじゃなくて、縁の下の根性なしってかんじの今の自分がけっこう好きだな、なんて思っているわけです。

これからも小人であり続けて、閑居をぼけぼけと楽しんで生きたいなあ。常に出力半分で。