小人閑居

世の中に貢献もせず害もなさず、常に出力50%。

なんの祭りだか。

今日は晩御飯がすごかった。

フランス産のチョウザメキャビア発酵バター添え
ガチョウのフォアグラの照り焼き丼トリュフのソースと白髪ねぎ添え

世界三大珍味を二つの丼として食べちゃった。すごい贅沢。

リボ核酸飽和脂肪酸・糖質・塩分祭り。

明日、健康診断だったら、絶対にいろいろと引っかかってる。絶対。でも、たまにはこういうとっても不健康なものを食べて、サラダとか食べないで、大食い選手権を見るのも楽しい。

最近、死ぬということについてよく考える。

死にかけていても、DNRなんて言わない。何度でも蘇生してもらう。声が出る限り痛いというかわりにKの名前を呼び続ける。そして、せん妄のなかでKを探し続けて出会い続ける。

死んでもそんなことにも気が付かないでKにまとわり続ける。そして、Kの寝酒を盗んで酔っ払う。

Kが死ぬときには、最後の息でわたしは肺に入り、Kが最後に呼ぶ名前になる。

久しぶりのお休み

21日間、休みが取れなかった。仕事がブラックってわけではなく、勉強会や研究会や、仕事の範囲を狭めないためにさせていただいている別件などが休日に入ってしまっていた。

今日は21日ぶりのお休み。

家にいてじっとしているつもりだったけど、冷蔵庫には翡翠煮にしようと思ってる茄子が入ってるし、秋鮭のポーチドサーモンを作ろうと思ってブラインに付け込んであるし、牛筋も買ったし、万願寺唐辛子も…!

そう思うと、いてもたってもいられなくなって、朝からずっと料理をしていた。

茄子の翡翠煮はちょっと皮の色が移ってしまったところがあってきれいな翡翠とは言えないけど、まあまあ翡翠

秋鮭は昨日の夜にブラインにレモン塩とマヌカハニーを足したものでキュアーしていたものを、真空パックしてお湯に入れて温度管理中。

万願寺唐辛子はアンチョビとガーリック、ニンジンの千切り、しめじと一緒にさっくり炒めて、皿に広げて冷ました。冷めたら冷蔵庫へ。

これから牛筋を下茹でして真空パックして、低温調理をする予定。

冷蔵庫の中の材料が下ごしらえされて、ストックされていくと、とても安心する。レタスも芯を抜いて洗ってキッチンペーパーに包んで冷蔵庫に入れておこう。キャベツもそうしておこう。

食べたいものをおいしくいただけるというこの幸せをよくよくかみしめて、冷蔵庫の低いコンプレッサーの音を聞く残暑の台所。

贅沢だな〜

仕事に関連して、ちょっと理論的な話をKとしていた。あそこがどうなってるとどういう症状が出て、あのあたりの機能的評価がこうだったからこういう対応が考えられて、とかなんとかかんとか。

いろんな情報を統合して、いろんな観点から分析して、評価して、対応を考えて。現場で実際にいろいろ動くことができて。理論的なことについてはいろいろな人と議論をする機会もたくさんもらっていて。別の職種の人とも連携しつつ、あれこれすることができて。

Kから、すごい楽しそうだね、と言われた。ああ、そうだな、大変だけど、この仕事もとても楽しんでいるなと思った。

好きなことばかりを仕事にしてきて、多分一番好きなことを最後の仕事(だと思う)にすることができて、なんて贅沢な人生を送っているんだろうと思った。

まあ、つらいこともあったことはあったんだけど、そういう記憶ってどんどん霧がかかったようにあいまいになっていく。楽しかったことはどんどん色彩が鮮やかに開放したレンズで撮った被写界深度が浅い写真みたいになっていく。だから、いま、考えると、ほんとに好きなことばっかりして楽しく生きてきたなって思う。

そして、これからも好きなことをして生きていこう。今自分がしたいこととできることをやっていこう。一生現場で、いち学徒として楽しく生きていこうって、がんもどきを煮ながら考えている日曜日。

昔、ハマショーも歌ってたしね。自由に生きてく方法なんて100通りだってあるさって。あれを繊細な思春期にカップヌードルとともに食ってきた大人って、こんな風に年取るのだ。そして、アンチョビを25缶買っちゃったりするのだ。

子猫に会った

仕事で行った先の駐車場で車の陰で子猫が昼寝をしていた。体が細くて小さくて、見るからにしなやかで、どう見てもうちのおかめと年齢の差が歴然としている。

若い。ものすごく若い。

年齢ってこんな風にして、猫でも歴然と見えるものなんだとびっくりした。

そうすると、子猫が気が付いてパッと起き上がりわたしを見た。その動作の素早さにも若さがあふれている。うちのおかめだと、起き上がるのに時間がかかり、そして振り向くことはないな…。

しばらく子猫と見つめ合っていたら、子猫が目を何度か細めた。子猫に呼応してわたしも目を細めた。しばらくおかめとこんな風にコミュニケーションをとっていない。なんでだろう。仕事が始まってあまり一緒にいることができなくなってしまったからだろうか。

違う。おかめは目が見えなくなったんだから。だから、目が合うこともないし、ましてやコミュニケーションの一環として目を使うこともなくなったんだ。

おかめの失明は緩やかにやってきて、おかめもわたしもそれにすっかり慣れてしまっていたけれど。

おかめが寝ているときに近くに行ってもおかめは気が付かない。わたしが触ると近くに人がいることに気が付いて、ニャーと鳴く。触っている手のにおいをかいだりするけれど、わたしの目を見ることはない。わたしのほうも振り向かない。もしかして、おかめに触れていないとき、わたしはおかめにとって存在していないのかもしれない。そして、わたしの存在は、おかめに触れている部分のみで、それ以外の部分はおかめにとって虚無なのかもしれない。

年老いた猫のそばに座る。わたしの体は一部のみが存在して、それ以外の部分が緩やかに消えていく。夏の幽霊みたいに。わたしが誰なのか、なんなのか、年老いた猫の隣で曖昧になっていく。

そんな夏は今年で最後かもしれない。





…ここ5年くらい、毎年、今年の夏が最後かもって思い続けてるんですけどね。
最近は、おかめはすっかり自分が目が見えないことに慣れて、目という器官の存在すら忘れているらしく、目を開けたままで寝ていたりします。怖いのでやめてほしい。

文章にまとめるということ

4月からの仕事でかかわっているプロジェクト(?)がいくつかあるのだけれど、それらについて経過などを文章にまとめておくとよいと先達より助言を受けていた。

プロジェクトとして経過をまとめておいたほうが良いと思われるものについてはまとめていた。しかし、それ以外の特に変化がないプロジェクトについては毎日同じことの繰り返しだし、と思ってまとめていなかった。

しかし、先達より「いやいや、まとめてごらん。それで、その状態の原因が何かをちゃんと考えてごらん」と言われた。言われたのでやってみた。そうしたら、手元にない情報がなんであるのか、まだ収集していない情報がなにでありそれらはどうすれば収集できるのか、など、自分の盲点となっていたところが明らかになった。

先達が文章にまとめることで仕事の技量が上がるよ、と何度も言っていたことがよく分かった。文章にまとめることで、漫然と日常的に行っていた業務が現状を適当に判断していただけであること、きちんと判断するためには今の主な状態に関する情報のみではなくそれ以外の視点からの情報も非常に重要であること、プロジェクトの種類を分類しその分類の立場からのみ考えていては駄目であること、などが見えてきた。そして、自分の判断の根拠となる文献を改めて確認することの重要性も。

考える、ということは頭の中のみで行うのではなく、文字で文章として頭の外に出すことが大事だと改めて感じた、という話。例えば、このブログもなんだかんだで続けている理由は、頭の中にあることを文章として客観的にみるって意味が大きいんだよな、とか改めて確認したり。

そんな、ゴールデンウィーク

「〜すぎる」が嫌い

「〜すぎる〇〇」という表現が嫌いだ。

まず、ほとんどの場合が女性に使われている。「美しすぎる市会議員」「可愛すぎる自衛隊員」「美しすぎる作家」「可愛すぎるバス運転手」みたいな感じ。

初めは驚きを込めた誉め言葉のつもりだったのかもしれないけど、何回も使われているのを聞くことが増えると、こういう言葉のインフレーションを起こすような表現の使用はやめてほしいと思う。

そして、そういう職業には男性がなるもの、そうじゃなかったら男にもてない恨みを持ってる男嫌い(をフェミニストと間違えてレッテルはったりするわけだが)の女がなるものという思考が透けて見える。加えて、美しい人やかわいい人は「ブロンドはバカ」「ボインはあほ」的な意味のない価値観とかも。

いいじゃん、とっても美しい市会議員で。いいじゃん、今まで見た中で一番かわいい人かつ医者、とかで。

この言葉を聞くたびに、まだこんな価値観が残ってんだなーと、ちょっとイラつく今日この頃。

新しい仕事は楽しいけど、自分の至らなさを痛感する日々だし。「〜すぎる」が「バカすぎる」とか、「役に立たなすぎる」とかにならないように、研鑽研鑽。今日は給料日だったから、いやな気分はこうやって吐き捨てて、楽しく給与明細眺めようっと。