小人閑居

世の中に貢献もせず害もなさず、常に出力50%。

沼地の中を歩き回る

今日、午前中に退職前の最後の出勤をして同僚や関係各所に挨拶をした。来週からは新しい職場だ。




以前、この記事で、自分の仕事は沼地に立ち泥の中を探り続ける仕事だと書いた。自分が思っていたよりも、その仕事に閉塞感を覚えていたんだな、と感じている。仕事の内容がいやだったわけではない。かなり好きな仕事だった。ただ、わたしのすることは泥の中に沈んだ人の声を聴き、手を引っ張り、沼の上に顔を出すことを手伝うまでだった。

そこから先、その人たちが沼地を渡り切り、低地ではあるもののとりあえず地面が固まっているところにまで一緒に歩く仕事は別の人にゆだねられていた。

正直なところ、沼地から出るために一緒に歩くガイドに嫉妬していた。わたしが一生懸命に沼地の中から声を聞き分けて引っ張り上げ、呼吸ができるように助けた人たち。でも、その手をガイドに渡してしまうと、みんな途端にガイドにばかり目を向けるようになる。

ちょっとちょっと、あなたがそうやって泥の上に顔を出せているのはわたしがいたからじゃござんせんか?

そうやって相手に感謝を強要しては意味がないことも知っているし、忘れられてしまう存在であったり、手を放すことが大事なことも知っている。それでも、ガイド役が頼られ感謝されているのを見ると、面白くない、と感じていた。

もちろん、そんなことは感じてはいけないのだから、そういう気持ちはないものとして知らんふりをしていた。が、常に心の奥のほうでじりじりとするものがあった。そのじりじりの中心にある感情を無視するのはよくないだろう、と去年の年末にふと思った。

よし、わたしはガイド役に嫉妬をしている。面白くないと感じている。でも、現状では仕事の分担がありそれについては了承しているし、重要なものであると認識している。では、現状の打破のためにどうすればいいか。選択肢1:そういうものだと受け入れてしまう。選択肢2:仕方がないとあきらめる。選択肢3:自分がガイド役になれる仕事を探す。選択肢4:酒を飲む。

大まかな方向性として選択肢1と2、毎日選択肢4、時折選択肢3。そんな感じでどうだろう、と考えた。そして、今年の初めにこれなら選択肢3として勝率高し、と見込んだ応募で不採用だった。ものすごく否定された感じがした。わたし以外のだれがその仕事にふさわしいんだ、くそが、とイライラした。

それでぐれてしまって、そのころ上司から転職なんて考えないでね、うちの事業所にとってあなたは必要なのよ、と言われ、そういわれるのも幸せかな、などと考えた。このままここにいるのもいいかもしれない。必要と言われる幸福を大事にしようじゃないか、と考えていた。

ところが、4月初頭に一番したいと考えていた仕事の募集があった。悩んだ末、ダメでもともとなんだから、書類だしちゃえ、と勢いで応募した。第二週に書類を提出、第三週の初めに面接を受け、2日後に採用が決まった。あれよあれよという間に事態が動いた。

決まってしまう前は、悩むだろうなとか迷うだろうなとか感じていたが、そんなことは全くなかった。迷いなく嬉しかったし、その仕事に転職をすることに決めた(退職時期についてちょっと法的にぎりぎりだったのでそれは心配だった)。

そうして感じたのが、ものすごい解放感。これからは、泥に沈んでしまった人の声を聞き取り、手を引っ張り、一緒に沼の岸まで歩いて行ける、と考えるとものすごい解放感があった。そして、わたしがこの仕事で感じていた閉塞感はかなり深刻だったんだな、と改めて考えた。

自分がしたい専門分野仕事ができるということは本当に幸福なことだと思う。その仕事の条件なども自分にとって有利なものであればなおさら。そして、新しい事業所は絶対にブラックじゃない。

あー、なんか、こんなのラッキーでいいのか、わたし。どこかに落とし穴があるんじゃないのか、ここはきちんと地に足を付けて歩いて行こう。