小人閑居

世の中に貢献もせず害もなさず、常に出力50%。

だんだん小さくなる。

就職が決まったわけでも、
髪を切ってきたわけでもないけれど、
もう若くはないといい訳してみる。
だれに向けてのいい訳なのかもわからないけど。




ある事件などを見るときに、そこには三つのレベルの違う見方がある、と以前恩師から教えられた。

一つは政治のレベル。その事件をどういう風に利用して国益というものをもたらすのかを考える。

ふたつめは社会のレベル。有機的な人の集まりがその事件によっていかに変化をこうむるのかを考える。

みっつめは人のレベル。個人の幸福がいかにして影響を受けるのかを考える。

この三つをごっちゃにして考えてはいけないよ、と恩師は笑っていた。そしてその当時のわたしは政治レベルのことを研究していたのだから、個人の幸福というものをいきなり入れてきても偽善でしかないと諭された。

例えば、死刑について考えるとき、死刑というものがもたらす国益(e.g.犯罪率の低下)、死刑というものがもたらす社会的影響(e.g.罪と罰に対する社会意識の形成)、そして死刑というものがもたらす個人の幸福への影響(e.g.被害者の家族が果たして救済されるのか)、というものを一緒に論じてはいけない、というのだ。

そこには一理あると思う(正しいとか正しくないじゃなくて)。それにそういう風にして視点を整理するのはきっと有効だと思う。

最近、わたしは人のレベルについて興味がある。自分の今までを整理してみると、政治から社会、そして個人へとだんだんと小さい範囲に自分の興味をシフトしてきた、といえるのかもしれない。

だから、安楽死についても法的な議論やその是非を考えるよりも、安楽死に今現在かかわっている特定の個人の幸福に興味がある。同性愛者を取り囲む問題についても、制度的な問題や社会的に存在している差別意識の形成よりも、そういうアイデンティティーを抱えている人がいかに幸福になれるかに興味がある。政治や社会を変えるのではなくて、個人がいかに自己実現ができるかに興味があると言い換えてもいいのかもしれない。

なんというか、昔は社会にかかわったり政治を動かしたりすることがかっこいいと思っていたし、そういう自分が結構好きだったりした。で、以前はブログでもそういうことを頻繁に書いていたように思う。今でも、堂々と大勢の前で意見を述べたり政治的に活動している人はかっこいいしと思うし尊敬をしている。

でも、まあ、わたしは今は人の幸福に興味があるのだ。ちっこいことだし世界を変えるようなことも、誰かの人生を劇的に変えることもないけど、それでいいと思っている。そして、そういう場所でぼちぼちと自分のしたいことができる場所を見つけられたようで、なんとなく幸福な今日この頃。



そんなことを書いていたら、Kがいきなり

「レベルって、右から読んでも左から読んでもレベルだね」

と言ってきました。level、たしかにそうだ。なんだか幸せ。