小人閑居

世の中に貢献もせず害もなさず、常に出力50%。

そんなにかわらない

「近頃の若いものは…!」というセリフはわたしが若いころにも年上の人が発していたし、古典を読んでも似たようなセリフはしばしば目にする。たぶん、ネアンデルタールが字が書けたら同じような記述を残していただろうし、エジプトの壁画だってそういう内容が書かれていても不思議ではない。そして、わたしも気が付けばそういっている。

要するに、年長者から見ると若年者はいつの世でも嘆かわしく見える、ということだろうか。それとも、人間というものは年を取ると脳の中の不思議なスイッチが入って姑のように重箱の隅をつつかなければ気が済まない生き物に変貌していくのだろうか。

最近、まじかにいわゆる「ヤンキー」「DQN」と言われる人々を毎日見る機会に恵まれている。彼らの話を聞いていると、

1)たまり場の喫茶店(またはスナック)のマスター
2)マドンナ的な女の子
3)現役のリーダー
4)現役のサブリーダー(リーダーに反目している?)
5)現役その他大勢(権力やらマブダチやらに右往左往)

のような、あるいはコピペで有名な猫を暴力団の関係に当てはめている写真のような役どころを見事に割り振っているのが見て取れる。そして、それぞれが、その役目に殉じる誠実さは驚くべきエネルギーだ。

まるでかつての不良漫画に描かれたそのままを生きている人が今もいる、というのに驚くとともに、人間の想像力というのはわたしが信じていたよりも貧困なのかもしれない、と感じた。

それと同時に、河合隼雄がその著書の中で、「不良」と言われがちな人間関係は傷を共有することで強固なつながりができているが、そのままでは自己実現ができない、自己の傷を己で見つめる孤独な作業が自己実現には必要不可欠だ、と言っていたことを思い出す。

わたしたちは自分を「社会」(imagined community)の中にあるいくつかの公に認められたナラティブに当てはめることで己を理解する傾向にある、という論調にわたしは割と賛成している。だからこそ、大学生は新卒で就職することにこだわり、ある人は結婚をして専業主婦になることにこだわり、世をすねる自分にこだわる人もいるんだろう。社会に向けて新しいナラティブ(オールタナティブ・ナラティブ)を提示するほどのエネルギーはなかなか持てない。仮に、誰かがそういう生き方をしたとしても、それを誰かに認めてもらいたいと思うと、あっという間にマスメディアなどによって「英雄」「すごい人」として類型化されてしまう。

要するに、想像力が必要なのではなく、人に自分の生き方を認めてもらいたい、という誰かに寄り掛かる姿勢が際限なく類型を生み出し続け、新しい何かもあっという間に既成の手垢まみれの型にはめられてしまう原因なのかもしれない。

と、すれば。

わたしがすべきことは、ブログもやめて何かに向けて発言することもやめて、世の中に認めてもらいたいという欲も捨てて、ただ黙々と自己実現を目指すことなのかもしれない。自己実現とは確かに孤独で厳しい道だと思う。

なので、「社会」を適度に批判したり利用したりしながら日々を過ごすことでお茶をごまかしてしまってもいいかな、と考えてみたりする。

とりあえず、しようと思うことは、かのヤンキーの人たちを「ヤンキー」という類型で見ることではなく、彼ら一人一人が抱えているものを個別に見ていくことかな。