Openly gay
同性愛者であるということが、カミングアウトの問題とほぼ同義で話されることが多いかな、と感じることがある。そして、わたしはカミングアウトという概念は非常によくないものだと感じている。
カミングアウト、ということは「隠されている」ということが前提なのではないだろうか。そして、カミングアウトといってもそれは不特定多数に対するものもあるだろうけれど、多くの場合は特定の個人に対するものとして扱われている。父親に対し、母親に対して、友人に対して、同性愛者であることをカミングアウトする。
結局、それはカミングアウトではないのでは、と思う。打ち明けられたひとが打ち明けられた秘密を他者に公言することはできないわけだから、秘密の共有に過ぎない。カミングアウトした人は、自分の大切な人に対してうそをつく必要がなくなるので気が楽になるかもしれない。でも、カミングアウトされた側は、多くの人が同性愛者の人権や社会的な扱われ方や歴史や世界的な状況など何も知らないまま、相手の秘密を受け止める。その秘密が個人の幸福と深くかかわっているゆえに、無条件で受け入れることが「正しい」ような雰囲気になり、相手の性的指向を受け入れさせられ、それに対して異議を唱える機会を失ってしまう。そして、「隠されている」状態は変わらない。秘密の共有者が増えただけ。しかも、その新しい秘密の共有者にはカミングアウトをする権利は与えられない。
なんだか、不公平な気がする。
なので、わたしはカミングアウトはしない。その代わり隠さないし、宣伝もしない。
Kとおそろいの指輪は、左手の筋を痛めたときやハープを弾くとき*1以外ははずさない。聞かれれば、パートナーがいるという。
今の職場は非常に硬い保守的な職場である(と外部からは見えるだろうけど、現実は全く正反対)。そこでも、わたしはとくに自分が同性愛者であることを隠していない。はっきりとカミングアウトしたわけではないので、気がついている人は気がついているし、関心のない人は知らない。知っている人も大人なので噂話をしたりもしない*2
先日、部署はちがうものの割りと仲良くしている女性とお昼を取っていたところ、Kの仕事を聞かれた。
「彼女は○○で働いているんですよ」
と深く考えずに答えたところ、
「え? パートナーって女の人なんですか?」
と聞かれた。あー、悪いことしたな、カミングアウトしたみたいになっちゃったよ、困ったな。
「いやあ、女性同士で暮らすのって気楽でいいですよ」
ああ、さらに同性愛者の勧誘みたいになってしまった。
隠さずカミングアウトもせず、という状態をOpenly gayと英語で表現する。日常生活の中で隠さずにいたら、三人称の格や言葉の隅々から自然に分かるでしょ、隠さずにいるということは守りに入らないから常に緊張状態にあるんだよ、なーんて考えていたが。
緊張感がなさ過ぎて、なんだか頭の悪い結果になってしまったなといまさらながらに反省。Openly gayもいいけど、もうちょっと考えながら生きていこうよ、と自分にちめちめいいたい今日この頃。