言わなければわからない。
ずいぶん昔にブライアン・アダムスの流行った歌で、You know it's true. Everything I do, I do it for you.みたいな歌詞があった。君のためなら死ねるとかそんな歌でものすごく流行ったのだけれど、わたしは「やめてくれ〜ひえ〜」と思っていた。すべてはわたしのためとか死ねるとか、嫌過ぎ。わたしのためというのなら、恥をかこうがなんだろうが生き延びろよ、ボケ。
自己犠牲というのは小説やドラマでは美しいけれど、平和な現実においてははた迷惑以外のなにものでもないと思う。
そうは思っていても、たまにつまらないことで自己犠牲をして(例:今日は和食が食べたいけれどKがパスタが食べたいというのでがまんする)、それを分かってくれなかった…とオモシロクナイ気持ちになったり。
先日、PodCastでBBCのWomen's Hourの「クリスマスに関するストレス相談」を聞いていた。離婚をして小さい子供がいたりすると、その子供が父親か母親のどちらと一緒にクリスマスを過ごすかというのはイングランドではかなりの問題になる。それで、相談者の女性が
「子供の前で元夫と言い争いをするのも醜いし、みんなの幸せのためにわたしは今年はがまんすることにしたんです。でもつらいです」
と言っていた。
それに答えて回答者は
「あのね、自己犠牲なんてするのはやめなさい。もし自己犠牲をするならそれを相手に分かってもらえるなんて思うのはやめなさい。相手はあなたとはまったく違う場所に立っていてまったく違うものを見てるのよ。あなたが子供と一緒にクリスマスを過ごさなくてもいい、と言ったら、『あ、そう』って肩をすくめるくらいが関の山。つらくてそのつらさを分かってもらいたいなら、勝手に自己犠牲なんか払って悲劇のヒロインになってないで、ちゃんと自分のつらい気持ちを訴えなさい。ちゃんと訴える、というのが大事よ。泣いたり喚いたりじゃなくて。例えば手紙なんかいいかも」
まったくその通り。
そういうわけなので、これからは和食が食べたいときはそういうことにしよう、と決心をしているクリスマス。
クリスマスディナーのメインの鶉はフォアグラとトリュフの詰め物をして準備完了しています。あとはKが帰ってくるだけ。そして、今年のKへのプレゼントは「もう勝手に自己犠牲をしない」です。お金かかんない自己犠牲のいらんいいプレゼントだ。