小人閑居

世の中に貢献もせず害もなさず、常に出力50%。

猫様御献立

下の記事で謎の献立を背景に猫おにぎりの写真を撮りました。背景に使っていたのは横浜の中華街の猫屋さん(名前忘れたけど猫グッズをたくさん売ってるお店)で買った日本手ぬぐいです。献立はこんな感じ。

わたしとしては、火曜日の「小芋オランダ」がめちゃくちゃ気になっています。どんな料理なんだろう? オランダって言うからには洋風ですよね。小芋ってサトイモじゃなくて、小さいジャガイモのことかなあ? 薄切りにしてソテーしてオーブンで上からチーズをかけて焼いたりするのかな。ゆでたジャガイモをベーコンとたまねぎと一緒にちょっと焦げるくらいまでいためて仕上げにバターをひとかけら? それとも、オランダっちゅうくらいだから、芋を揚げて南蛮漬け…意外なおいしさがありそう…。

そして、水曜日には激しくここには行きたくないです。雀の涙汁と烏のしょうが焼き。…まずそうだ。





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以下、いいわけ。

ときどき、自分にはなにができるのかな、と思うことがあります。わたしは小ずるいし、自己保身もあるし、だからチャリティーに全財産を投じたり、一生懸命になることができません。自己犠牲の精神なども持ち合わせていません。だから一生懸命に小さい命のためにつくしている人や、マイノリティーの人権のために戦ったりしている人や、いろいろなところに寄付をしている人たちを見ると、すごいな、と尊敬してしまいます。わたしにはできない。

できないひとつの理由は、はじめたらどこで終わりになるのかがわからない、というものがあるのだと思います。それは言い換えれば、自分の弱さゆえに、「救う」という行為からもたらされる達成感に中毒症状を起こすことを恐れているということなのでしょう。そして、その中毒症状の結果として自分の身近な存在を傷つけてしまうかもしれないことも。

広い視野を持つことは大切だし、いまどこかの国で殺されている同性愛者はKだったかもしれないしわたしだったかもしれないと感じることも大切だと思います。でも、わたしにはすべての人をすべての命を救うことはできない。だから、もし手を差し伸べるとすれば、どこまでするのかを決めなければいけない。そして、それは、わたしが救う命と見捨てる命を作ることになる。「救う」「助ける」という行為の後ろにあるこの傲慢さにひるんでいるのかもしれません。

そんなことをぐだぐだと考えていました。でも、とりあえず、人に頼まれてするのではなくて、自分で決めよう、と考えています。それくらいの責任なら取れそうだわ。