小人閑居

世の中に貢献もせず害もなさず、常に出力50%。

おっさんくさい息子もお年頃

息子は昔から独立していた。独立心が旺盛、とかそういうのではなく、彼のあり方としてひとりでぼけっと突っ立っているという感じ。だから、わたしに会いに来る時も、「会いに行ってやる」でもないし、「会いたくないけど、仕方がない」でもないし、ましてや「うぇーん、おかあ〜、会いたかったよお」ではありえない。

自分がいたい場所にいる、それだけの単純な事実が息子の存在感だと思う。一応母親の自分でいうのもなんだけど、ものすごく不思議な子だ。

だから、わたしが帰ってきたはじめての週末も、友達のところに泊まりにいくから、とあっさりと言って会いに来なかった。ありがちなティーンエイジの「親なんかうっとうしくってやってられねえや」というニュアンスはない。浮世の義理もなにもない。飄々と生きている。

それでも、わたしのところに来るとネット環境が整っていて、わたしの古いノートPCを自分専用としてネットをしまくれる、というのは、年齢相応に魅力的ではあるらしい。

ちょっと失礼をして画面を覗き込ませてもらうと、そこで展開されているチャットは絵文字やらアイコンやらフォントやらを使いまくったもので、わたしにとってはなにがなにやらまったくわからない。そこで、時折、猫のおかめをキーボードの上に乗せて息子のチャットに強制参加をさせてみたりする。それがまた彼の友人達の間では人気があるらしい。要するに、猫がタイプをしても自分達がタイプをしても内容なんてたいして差がないようなことを話しているんだろう。大事なのは話している内容ではなくて、つながっているという感覚なのかもしれない。生々しく抱擁や性や独占欲によって作り上げられる排他的関係ではなく、ネット上にいるときだけつながっているという刹那的であり開放的である関係性が息子の気に入っていることなのかもしれない。

しかし、本人にそんなことを聞いたって仕方がないので、わたしは自分の中でまあそんなもんだろうと適当に納得をしている。



そんな息子でも、ティーンエイジャーらしく自分のファッションは気になるらしい。洋服や髪型にものすごく気を使う。アラファト議長でおなじみのカフィーア(アラブスカーフ)も彼のこだわりの一環らしい。しかし、この写真で見ると、手ぬぐいを首に巻いているおっさんにしか見えない。今度指摘してやろう。

髪型に関してはカフィーアよりもさらにこだわりがあるようだ。彼の父親はドライヤーが嫌いなため、父親の家にはドライヤーがない。そのため、わたしのところに泊まりにくると、朝にシャワーを浴びた後にドライヤーでブロードライをしてくれとわたしに頼んでくる。そして、出来上がりを鏡でいつまででも見ている。あっちを向いたりこっちを向いたり、いろんな表情をして、一番かっこよく見える自分を探している様子は、やはりお年頃らしくてほほえましい。

しかし、そののち、

「あー、ありがとー。いいねー、いいねー。この感じ」

と、言う口調がなんだかおっさんくさいのに、失笑を禁じえない今日この頃。